私の生涯
会長 宇野 元正
私は昭和9年1月1日生まれで母親の話しでは、お正月の朝4時頃に生まれました。
母親は おもちも食べられなかったそうです。
私は子どもの時は身体が弱く、いつも病院通いで親には大変心配をかけていました。
そして私が5歳の時、兄は戦地にいて戦死の通知を受けました。
少し覚えがありますが、その後は親は大変な苦労をしたと思います。
そうこうして、私も青年になりました。
その後は、青年団活動が活発で、素人芝居をよくやっていました。
私は芝居が大好きで、少し写真をお見せしますがその頃よくやりましたね。
お富与三郎のお富を、女形でやりました。
創業当時をふり返って
会長 宇野 元正
昔は私は岐阜の水道業者に務めておりこの村で私を含め5人ほど そこで働いていました。
その頃、私たち3人が 同じ職場でやっているのならば地元の公認を頼んだらどうかちいう話しが出て「よし、やろう。」ということになりました。
そこで、村で、役場に務めてみえる方にお願いしたのですが、すぐに返事はありませんでした。
あきらめかけていた数年後、公認がもらえたと聞き「それなら共同で仕事をやらなきゃいかん。」ということになりました。
初めは3人でやるはずでしたが、実際は2人で始めることになりました。
2人で協力していくという意味で『協栄ポンプ店』の看板を掲げて出発したもののどこへ行っても仕事はもらえず、下請けで仕事をすることになりました。
その26年後、一緒に会社を立ち上げた社長が病気で倒れて亡くなったため、別の会社で働いていた
息子たちが会社を支えるために帰ってきました。
そして親子で会社を盛り立て、現在に至っています。
東京オリンピックが開かれた1964年、
私(浩二)はまだ よちよち歩きをしていました。
当時、テレビや洗濯機は我が家にありませんでした。
お風呂は五右衛門風呂で、かまどの周りや天井は黒くすすけていたのを覚えています。
家の裏には井戸があって一段降りた所に いけすがありそこへ 絶え間なく地下水が自噴して流れていました。
私が物心ついた頃、父は「丸善工業所」という看板の付いたトラックに乗って勤めに出かけていました。
ネジ切り油と塩ビの接着剤の匂いが染みついた作業服はとても大きく見えました。
やがて「地元で水道工事店をやってはどうか?」と背中を押して下さる方の勧めで、同僚と共に独立を決意し『協栄ポンプ店』が誕生したそうです。
しかし、船出はしたものの 仕事は思ったほど見つからず頼まれれば どこへでも行ったそうです。
ある時、自動車工場建設の配管工事のために ありったけの材料をトラックに乗せて神奈川県まで向かう道中、何時間も運転して ようやく厚木のけわしい峠を越えようとした時、エンジンから煙が出てきてトラックは故障してしまったそうです。
「あん時は大変だったなー」と父は笑って話していました。
いろんな人との出会いと 父の一生懸命な努力のお陰で今日の協栄ポンプ店があるのです。
すいすい工房チーフ 宇野 浩二